白土三平の風の石丸という作品を読んだ

1960年の作品だそうで、あまり初期の作品に興味はなかったんだけど

読んでみると複数のキャラクターがそれぞれ対立してバトルロイヤル状態で戦うのがすごく斬新でスピード感がある

何度か書いてるように白土作品は作画だけでなくストーリーも複数のスタッフがいて

けっこうつまらないものも多いんだけど、これは忍者武芸帖やカムイ伝に続く正統な白土作品という感じがする

ところどころに出てくる植物や自然現象の知識やそれを生かした忍術などいかにも白土作品という感じ。

1960年と言えば、忍者武芸帖は1959年から1962年だからその途中で描かれたことになる。

忍者武芸帖の中盤で、あまり本編とは関係のない影一族の話になって、長々と影一族の紹介をした割りにその後大した活躍もしないというちょっと退屈で不自然な展開があるが

その時期に白土が忍者武芸帖を離れて石丸の方をやっていたからというのは考えすぎだろうか。

 

鈴木寿雄という自分が好きな絵の画家を発見した

この本はページ数は少ないが素晴らしかった

検索するとかなり古い時代の人らしくて、この本以外の絵はかなり自分の好みとは違う感じだった

おおば比呂司にも似てるんだけど、こういう絵の始祖かもしれない

ちなみにこの本の巻末のプロフィールに、日本画家で兄の鈴木朱雀がベルリンオリンピック絵画部門で賞を取ったと書いてあるが

これが藤田嗣治ととも受章したと書いてある。

さすがに洋画家で有名な藤田嗣治は時代が違うんじゃないかと検索してみたが、おそらく藤田隆治という別の人の誤字だろう

美術館発行の本なのになw

車を車検に出さないといけないが、なぜか車検証がない

車検の時は毎回書類が何か足りない。

過去にも車検証が必要なことを知らなくて処分していたり、自動車税の納付書が無かったり、

いつも次回こそは気を付けようと思うのだが、たとえば車検証をもらったときや、整理をしてて出てきたときにそのことを思い出さないのだ。

最近は車検に税金の納付書は必要なくなったそうだが、今回それを知らなくて部屋中ひっくり返して探しまわったが、やはり見つからなかった。

なぜ納付書が送られてきたときに車検のことを思い出さないのか?

普通の人はどうやってそれを覚えておくのだろう。

まさか紙に書いて次の車検まで壁に貼っておくことはしないだろうし。

これは車検に必要な書類だけでなくすべてがそうだ。

自分は子供のころから学校の宿題を全くやらなかったし、必要な教科書を持ってこなかった。

教師からすれば完全に授業をストライキしてる生徒だったろう。

別に不良だったわけでもストライキしてるわけでもない。

なんで子供のころ自分はそうだったのか思い出せないんだけど、学校が終わると次の日まで学校のことを思い出すことがなかったからのように思う。

単に自分の体質というか脳にそういう障害でもあるのだろう。

 

ちなみに車検証は運輸局に取りに行ってきた。

運輸局まで100kmあり、行ったこともない場所だが、5時過ぎまでやってるとサイトに書いてあったので昼過ぎに出れば十分だろうと思っていったら

散々道に迷ったが挙句、3時間以上もかかって4時5分前についたが、なんと受付は4時までだというからぎりぎりだった。

ドライブがてらのんびり行って帰りは買い物でもしながら帰ってこようと思っていたが、

ちかごろ珍しいくらいの大雨だったし、夕方なのに真っ暗でどこにも寄らずにヘトヘトになって帰ってきた

 

ナウシカが見たくなったからレンタルで借りて、再生確認にちらっと見たんだけど

ちょうどそのシーンが、ナウシカと老人たちがクシャナに捕虜として飛空艇で連れていかれるときにアスベルの攻撃に会い、

老人たちの乗る飛空艇が操縦不能になって、老人たちが

「森で虫に食われるの嫌じゃ」「このまま死にます」

と言ってあきらめかけてるのを、

ナウシカが自分のマスクを外し微笑んで見せ、「必ず助ける、荷物を捨てなさい」と命令して

ナウシカの笑顔を見た老人たちが希望を取り戻し、飛空艇から荷物を捨てる、

超名シーンだよね。まあナウシカは名シーンだらけなんだけど。

風の谷の姫であるナウシカの人格と、国民の信頼感が表現されているだけでなく、

ナウシカをさんざんひどい目に合わせていたクシャナもこの前にナウシカに助けられていて、

このナウシカの言動を見て、それまで高圧的だったクシャナが、ナウシカの人格と、同じ王女としての器に敗北感を感じ始めるという

恐ろしくち密に計算されたシーンになっている。宮崎駿はどうやってこういうシーンを思いつくのだろう?

宮崎アニメが好きな人にはナウシカクシャナと、未来少年コナンモンスリーを重ねてみてしまうと思うけど

モンスリーもだんだんコナンの人間性にひかれて自分の組織に疑問を持ち始める心理が本当にうまく書かれている

なぜこのレベルのことを他の監督や脚本家はできないのか?

 

もともと、めんどくさがりだが、年を取るごとにひどくなる気がする

ちょっとしたことでも後回しにして結局いつまでもやらないし、

自分でも怖いと思うのは、自分が好きなことですら後回しにしていつまでもやらないことだ。

ダークソウル3ワンダと巨像だって買ってプレイするまでに何年もたっている。

老化現象の一種なのかもしれないが、楽しいことよりも何もせずに寝転んだりしてるほうが楽しいというか楽なのだ

寝転んで本を読んで面白いと思っても、すぐ本を閉じてしまって目をつむっていたほうが気持ちがいい

若いころは公園のベンチで何もせず座ってる年寄りを

「残りの人生でやりたいことはないのだろうか」「あんな風に残りの人生を何もせず過ごして平気なのだろうか」

と思って見ていたがこういうことだろうか。

 

最近は田舎の家に行くのも面倒でしょうがない

もともと行ってもつまらないから、ネットやゲームができるようにしたり

薪でふろを沸かして入ったり楽しみを作って行きやすいようにしてるのだが、

最近は、そろそろ様子を見に行かないといけないと思った時から、何日も憂鬱だ。

さっさと行けば済むのだが後回しにしてしまい、何日も憂鬱に過ごしてしまう。

今日行ってきたが、行けば何のことはない薪風呂に入ってさっぱりして帰ってきた。

行くと修理しないといけないところとか、木を切らないといけないとか何かしら用事ができるので、近いうちにまた来ようと思うのだが、

帰っていつもの生活に戻るとまた行くのが辛くなる。

これが一生続くのかと思うとさらに鬱になるな。