アルプスの少女ハイジの原作を読んでみた。

アルプスの少女ハイジ (角川文庫)

アルプスの少女ハイジ (角川文庫)

あまり厚くない普通の文庫本サイズだが、子供のころにもかなり分厚いのを読んだことある。
アニメのハイジは子供のころにも大人になってからも何度も見ているが
もうなんというか言葉にはできないくらいの素晴らしい作品である。
じゃりン子チエと並ぶ高畑勲の最高傑作と思っている。
あの魅力的な各登場人物の性格描写は高畑勲によるものか宮崎駿によるものか、もともと原作が持っているものなのか知りたかった。
たとえばフランクフルトでハイジがゼーゼマン(クララの父)に「冷たい水が飲みたい」と頼まれ、
ハイジが遠く離れた隣町まで冷たい水を探しに行くエピソードがある。
ゼーゼマンは久しぶりに会ったクララと話をするのに、ハイジに席を外してもらうために軽く頼んだだけなのに、
時間をかけて一生懸命「冷たい水」を探して持ってきたハイジにゼーゼマンは礼を言い、おいしそうに飲んで見せて、
ここでゼーゼマンは、ハイジはロッテンマイヤーたちが言うような「頭のおかしい子」ではなく、優しく頭のいい子であること知る。
この一つのシーンだけで、見てる人はハイジのひたむきで純粋なかわいらしさと、出てきたばかりのゼーゼマンが賢くやさしい人で、
今後ハイジの理解者になる登場人物であることを知ることができるのである。
ハイジが可哀そうな話が多かったフランクフルト編に希望がわいてくるという演出効果もある。
さらに、ハイジは水を探している途中で「お医者さま(クララの主治医)」に出会っている。
医者はコップを持った風変わりな少女ハイジに優しい言葉をかけ「ゼーゼマンによろしく」と伝え、この医者がゼーゼマンの知り合いであり、
今後重要なキャラであることの伏線になっている。
この綿密に計算されたかのようなシーンはアニメのオリジナルかと思っていたが、原作にもちゃんとあった。
こういう一つの出来事に各個性的な登場人物がかかわって各人物の魅力が引き出されストーリーが構築されたりという手法が原作に結構ある。
わたしは小説や文学のことはよく知らないが、これは作家なら皆ができる技術なのだろうか?
翻訳者のあとがきによると、原作者シュピリは「50歳になるまで作品は発表すべきでない」と考えていたそうで(なぜか書かれていないが)
それまでアイデアを書き溜めていたそうである。それだからなせる業なのかもしれない。
昨今のアニメや映画の脚本家はこういうのが全く分かっていない。すべてセリフやナレーションで説明してしまう。
高畑勲は原作のこういう魅力をちゃんとアニメで再現している。



アニメの後半、クララが聖書をペーターのおばあさんに読んであげて感謝されることにより、それまで人に甘えるばかりだった自分が
人に役に立てることを知るシーンは私が読んだ原作にはなかった。これはアニメのオリジナルだろうか?


原作では医者が将来ハイジの保護者になることをおじいさんと約束して終わる。
これはアニメにはなかったと思う。これはネットで知ったときは違和感があったが、実際読んでみるとこれでいいと思う。


昨今では「アルムのおじいさんは実は傭兵だった」というのがネットではよくトリビア的に言われるが、
子供のころに原作を読んでる私にはそんな記述があった記憶はないので不満だった。
戦争に行っていたというのは書かれていた。
子供の頃に読んだ原作ではおじいさんは戦争に行っていて、足を負傷した仲間とデルフリ村帰ってきたが、戦争を嫌う村人たちは
おじいさんたちに冷たくしたために、おじいさんは村の人たちを嫌い山に住むようになった。
また、その介護の経験があるから、足の不自由なクララの世話もできるというのは書かれていたと思う。
今回読んだ原作にもそのように書かれていたが、戦争についてそれ以外のことも傭兵だとも書かれていなかった。
スイスは傭兵が盛んだったそうだから、村が平和なのにおじいさんが戦争に行っていたなら傭兵なんだろうけど、
原作はおろか、アニメすらちゃんと見てないよう人たちまで、そこだけをトリビアのように面白おかしくいうのは馬鹿かと思う。
ただ私が読んだ原作は英語版を翻訳したものだそうで、スイス語の原作にはどう書かれてるのかどうか知らない。


原作を読むと、アニメとはペーターの性格が多少違うことや聖書の話が多いことに違和感を感じるという意見をよく見かけるが、
私は子供のころにも原作を読んでいたせいか、それほど違和感は感じなかった。