昨日の藤子F不二雄の本にドラえもんのタイムマシンについての専門的な考察が載っていて
面白かったのでタイムパラドクスについて私も考えてみました。
「親殺しのパラドクス」というのが有名ですが、タイムマシンで過去に行って自分の親を殺せばどうなるのかというやつです。
親を殺したら自分は生まれてこれないことになるし、自分が生まれてこなければ親を殺すことも不可能になり矛盾が生じます。
これがタイムトラベルが不可能であるという説の有力な根拠として使われていて、私もその説を信じてましたね。
それ以外の説にはパラレルワールドのように、自分がいる世界と、親を殺して自分が生まれなかった世界は別であるという考え方もあります。
これも矛盾は解消されますが、私たちの住んでる世界と並行した世界が無限にあるなんて現実的には想像しがたいです。
もう一つは「過去は変えることができない」という説です。親を殺そうとしても殺すことができない。ピストルで撃とうとしても何がが邪魔して絶対に当たらない。
これはSF映画や漫画でありそうですね。私はあまりその節は信用してなかった。
漫画や映画のように、殺そうとしたらうまいこと邪魔が入ったりするわけなかろう、神様が操作してるわけでも脚本家がいるわけでもなし、
いったい何の力が働いてそうなるのか、現実的にあり得ない。と思いますよね。
ですがこれは今考えると一番説得力あります。
説明すると、私が今この世にいるということは親は私に殺されなかったのです。
私がいるこの世界に、未来の私はすでに来ていたのですが、親を殺すことも何らかの理由で失敗し、何らかの理由で私に会うことも、未来から来た痕跡を残すこともできなかった。
それが今私がいる現代なのだ、ということです。
何の痕跡を残さなかったにしても何らかの活動をしただろうが、その結果が今私がいる現代なのだ、ということです。
これは矛盾が生じないですね。
「親殺しのパラドクス」といいますが、私は子供のころから思ってましたが別に親を殺さなくたって、過去の私に合うだけで歴史は変わってしまうだろう、
過去の世界に私が行くだけで、いわゆる「バタフライ効果」により歴史は大きく変わってしまうはずだと思ってましたが、
これも上の説で矛盾なく説明できます。今私がいる世界に未来の私は来ていたのです。だから将来、私が過去に行っても歴史は変わらないのです。


多少、発想の転換は必要ですね。タイムパラドクスの話をすると「じゃあこうすればどうなるの?」と考えがちですが、
そうではなく、自分がそうするということは過去の自分もそうしたはずで、今自分がいる現代はそのようにした結果である、ということなのです。

また、別のタイムトラベルを否定する説で「もしタイムトラベルが可能ならなぜ現代に未来人が来ないのか、過去に来た記録がないのか」というのがあります。
これも上の説で説明するなら、「未来から人は来ているが、何らかの理由で私たちに合うことはできなかった」と説明できますが、
未来というのは無限の可能性があり、タイムトラベルしてくる人も無限にいるはずなので、誰一人として私たちに会えなかったというのは無理がある気もします。